石井商店の歴史

三浦半島で四代続く
       老舗鮮魚店

石井商店の歴史
地域とともに歩んだ歴史 地域とともに歩んだ歴史

地域とともに歩んだ歴史

石井商店のルーツは太平洋戦争前まで遡ります。始まりは「加円丸」という舟でサザエを採る漁師でした。現在の店主・石井隆行の祖父の代から三崎で貝類を中心に取り扱う鮮魚店・加円丸商店となります。まだ地域の漁業協同組合も無い時代です。商品は直接、地元漁師から仕入れており、松輪、城ヶ島、長井、葉山の漁師が列をなしてアワビやサザエなどの商品を売りにきたそうです。こうして仕入れた商品は舟で築地などに輸送していました。天皇陛下が葉山の御用邸に来られるとサザエやアワビを献上したとも伝えられています。

石井商店は、先代・石井力昭が昭和40年に加円丸商店から暖簾分けして、油壺に開業します。時代は高度経済成長期の中、三浦には押し寄せるように観光客が来ていました。昭和43年には油壺マリンパークがオープンし、石井商店の店の前まで渋滞の列が連なりました。こうした観光客の方によって、石井商店ではサザエなどがお土産として購入され、業績を拡大します。当時のお土産需要は三浦を超えて拡大し、石井商店でも千葉や江ノ島までサザエの配達に行っていました。

仕入れ量が増大するなかで、先代・力昭は城ヶ島にサザエを貯蔵する生簀を作ります。力昭は何でも自作する人で、廃棄された木の電柱を木材にして生簀を作りました。さらにそれだけでサザエの貯蔵には足りなく、諸磯湾にあった潜水艦を隠していたという防空壕に5トン以上のサザエが貯槽できる水槽を作り、それを生簀としました。最盛期、石井商店では8トンのサザエを貯蔵していたそうです。

時代の移り変わりとともに、石井商店の主要顧客は三浦半島の質の高い貝類や伊勢海老を求める飲食店に変わりました。長年蓄積してきた生簀技術は、店内で水槽の海水を循環して使用する設備に生かされ、他にはない新鮮な魚介類の取り扱いを可能にしています。

伝統の活貝を武器に

 油壷に店を構える石井商店はサザエやアワビといった貝類や伊勢海老を中心に取り扱う三浦でも他にない鮮魚店だ。店主・石井隆行さんは店のルーツを太平洋戦争前まで遡る。

「私の曽祖父は加円丸という船で漁師をしていました。それが三崎で貝類を中心に扱う鮮魚店・加円丸商店になったんです。祖父の時代、まだ漁協もなかった頃が最盛期で、松輪、城ヶ島、長井、葉山の漁師が列をなして商品を売りにきたそうです」

 加円丸商店が買い付けた商品は船で築地等へ輸送された。またアワビは船を使って葉山の御用邸にも運ばれたという。

 石井商店が開業したのは昭和40年代初頭だ。隆行さんの父・力昭さんが独立して店を構えた。当時は油壺に行楽客が押し寄せた時代。店は土産用のサザエを中心に扱って業績を伸ばした。

「当時はお土産用の商品で成り立っていました。私が入社した30年前は千葉までサザエの配達に行っていた。常に5トン以上のサザエを仕入れていて、それを城ヶ島の海の生簀や、諸磯湾の防空壕跡に作った生簀に貯蔵していました」

 この防空壕は潜水艦を隠せるほどの広さがあり、ここに作った巨大な生簀用水槽はテレビで幾度も紹介された。

 だが時代の風向きが変わった。レジャーの楽しみ方が変わり、土産物が買われなくなったのだ。石井商店の顧客である土産物屋も廃業していった。そこで隆行さんは新たな方向へ目をむける。

「4トントラックに水槽を積んで、活きた鮮魚を都内まで配達するサービスを始めたんです。当時はそんなことをしている鮮魚店はなく、新たに飲食店との繋がりも生まれた」

 それは大量に商品を捌くのではなく、質を求める顧客が満足する商品を提供する業態へのシフトチェンジだった。石井商店には活きた貝類や伊勢海老を扱うために水槽の海水を循環して使用する設備がある。この設備は他の鮮魚店にはないものであり、目の肥えた料理人も納得する鮮度の高い商品を提供することができた。

「最盛期に比べると今は規模も縮小し、城ヶ島や防空壕にあった生簀もなくなりました。実はこの水槽の設備も維持するのは大変です。でも海が近いこの場所でしか出来ない。他の鮮魚店には出来ないことなんです」

 コロナ禍で多くの飲食店が影響を受ける中で、石井商店も大きな打撃を受けた。だが、石井商店は先代から引き継がれてきた一級品の海産物を提供する活貝技術を武器に、新たな活路を切り開こうとしている。

2021年4月7日 神奈川新聞 掲載
文:桑村治良(合同会社オン・ザ・ハンモック)

神奈川新聞 石井隆行